おやすみ

気が向いたときに書いて、すぐ下書きに戻す。

寝れないから

本当は全て終わってから書こうかなと思っていたが、そんなことできないかもと思ったから書ける部分は今書いておこうと思う。

 

 

天国も地獄も信じていない。「宗教」という存在は否定しないので、死後の世界とかはまあ、あなたが信じているのであればそうなんですね。という感じで、死んだらどうこう…とかに何の気持ちもなかった。否定的な思いはないけど、どこかでそれが何なんだ?みたいな気持ちはあった。

少しわかったかもしれない。みんなが信じてる気持ちが。「あの世」が用意されてないのはあまりにも寂しいから。地獄のことは知らないが、天国は大切な人が亡くなった時、ここにはもういないけど、見えない空の向こうで、過ごす場所がある事を願ったから作られたんだと思った。空の向こうであなたがまだ「人」として存在して、楽しく生活していると、私たちが決めつける為に。

 

 

 

じいじは愉快な人だ。毎朝パンにジャムを塗って食べて、昔は1階の自室ミシンがありそこが仕事場だった。なんの仕事かは具体的にはよく知らない。なんだったんだろう。わたしが小学校低学年くらいの時に、その辺にあったロトのマークシートにマシンで縫い目を作って遊ばせてくれた。

甘いものが好き。赤福を持って帰省すると喜んで食べていた。部屋のちゃぶ台には甘いものが常にあって、よくバターあめがお盆にのっていた。そこで私は初めて「バター飴」というものを知った。ミルク飴みたいなのもあったかな、ボロボロに砕けたルマンドも置いてる時があった。

本を読むのが好き。時代物の小説をよく読んでた覚えがある。区の図書館に通っていて、私のことも連れて行ってくれた。私は都民じゃないからカードが作れなくて本来利用できないんだけど、なんか適当に作ってくれた。それまでは、じいじのカードを使って好きな本を借りていた。なんとなく表紙が可愛いやつとか、色々借りては名古屋に帰る頃じいじに返却を任せていた。そういえば今ある図書館の前は暗くて小さい区民館の図書館で、最初に行ったのはそこだった。しばらくして少し離れた場所に綺麗で広いのができて、そこにも一緒に行った。

夜遅い時、トイレを使おうとふと1階に降りたらじいじの部屋に明かりがついてて、のぞいたら本を読んでいた。なにしてるの?と声をかけると、まだ起きてたのかあと言っていた。

花の写真を撮るのが好き。写真の上手い下手は分からないけど、あんまり上手くなかったと思う。そこら中でいろんな花を撮っては現像して、謎の花のアルバムをくれたりした。

「チャイナの時代だぞ」これはわたしの家族の定番ネタだ。わたしが小学生くらいの時から、帰省中の夕食でたびたび言われていた。「これからはアメリカだけじゃない、チャイナの時代だ」だから英語も中国語も頑張った方がいいぞ、と。内容としては至極真っ当なのだが、なんかその言い回しがおもしろくて、じいじといえばチャイナだった。

散歩に行った。春休みは近所の土手で桜が咲いて綺麗な道があり、何度か一緒に歩きに行った。何を話したかまでは覚えてない。たわいもない話だった。

午後、ふとじいじの部屋に行っていない時は大体病院に行っていた。

おしゃべりが好きだった。ミシンの仕事が変わり、駐輪場の仕事になってから(私が中学に入ったくらいかな?)は、夕食の時間に仕事場の知らない人の話をよく聞かせてくれた。細かい内容は覚えてないけど、〇〇さんがな〜〜つーからさ、と楽しそうに話していた顔は覚えている。

ニンニクが嫌い。少しでも入ってると敏感に気づき、絶対に食べない。時にはカレーにも入ってるとか言い出していた。じいじはニンニクダメだからさ、と言っていた。

わたしと妹のことを可愛がってくれていた。長期休みのたびに泊まりに行っていたのだが、私たちが来る日は仕事から帰ってくる時にわたしの好きなたこ焼きやお好み焼きを買ってきてくれることが多かった。りーちゃん粉物すきだろ、と箱を三つとか持って帰ってきて、私は晩御飯食べ終わってるのに食べた。あと私たち用に、どこで買ったか分からないような子供向けのアクセサリーや文房具や小物を買ってきてくれていた。当時は何この柄〜と言いつつ受け取って、後々保管に困っていた。カチューシャをもらったのは覚えてる。

よく笑う人だった。じいじがどんな青年だったか、夫だったか、父だったかはわたしは知らない。じいじは優しくて面白くて、愉快な人だった。あと、ディズニーのことをデズニーと言っていた。

 


わたしが大学受験について真剣に考えなければいけなくなってきた春、じいじが倒れたという知らせが入った。

何が何だかわからないまま東京に行き、一命を取り留め寝ている姿のじいじを見た時涙が止まらなかった。また次に顔を見に行った時に、急にたかひろ(叔父)がさあ、早稲田を受けたんだよ、りーちゃん仇をとってくれ、そんなような事を言った。(その時知ったが叔父は中学だかなんだかで早稲田を受けたらしい。)弱ったじいじの顔を見て私がやらなくてはと思って、早稲田受けるよ、頑張るよ、と泣きながら話しかけた。第一志望を決めてくれたのはじいじだ。そんな大口を叩いたものの結局私は浪人までしても受からなかったわけだが、やっと大学生になってリハビリ施設で暮らすじいじに会いに行った。「私のことわかる?」と聞くとその時はまだ元気で、わかるよ、りさこだよ、と認知していた。大学生になったんだよ〜と報告をすると喜んでいた。その後もたまに会いに行っていたが、私は施設にいるじいじを見ると毎回泣いてしまっていた。本当は笑顔で話したかったが、どうしても涙が出てくる。元気で愉快で笑顔がかわいいじいじが弱ってしまい介護用の服を着て車椅子に乗ってきて、意思疎通が大変になってしまった姿を見て、どうしても涙が止まらなかった。昔のじいじにはもう会えないのか、という私の我儘な寂しさだった。

認知機能も低下していっていたが、じいじは私のことを覚えていた方だ。私の顔が視界に入って、手を握るとじいじが泣いたりしていた。

他にもあったはずだが、私は泣いてばかりだったからあまり覚えてない。昔のことの方が鮮明だ。


そこからコロナが流行し、面会が出来なくなった。ガラス越しで手を振ったりすることしかできない時期もあり、部類が引き下がっても施設の面会は厳しく、1階にあるガラス越しに顔を見て、マイクとスピーカーでやり取りをした。ディズニーで働くんだよ、じいじも来てよと言いながらまた泣いた。泣くんじゃないよ、みたいな事を言われた。


上京して会いに行きやすくなったのに、鬱であることを周りに言ってから余計に親戚には会いたくなくなり、施設とのやり取りをする叔父に連絡をしたり祖母に会うのが億劫で、面会に行こうとしなくなってしまった。倒れてからずっと、じいじは頑張ってリハビリをしたり、長生きをしていてくれたから私の中に甘えがあった。いつかくる未来に対して何も考えてなかったように思う。覚悟も何もしてなかった。


金髪姿で葬儀に行く。じいじはきっと褒めてくれる。似合ってるって言ってくれる。そう言う人だよね、と母とも話した。


離れて暮らしていたし、会いに行けるのは長期休みとタイミングが合えば正月くらいで、過ごした日数で見たら全然ない。帰省中家族で出かける時も俺はいいよ、って言うことが多かったから一緒に出かけることも少なかった。じいじの人生の記憶の中で、私との思い出はどのくらいあるだろうか。


リハビリは大変だったと思う。体が思うように動かなくなって、苦しい日々だっただろう。じいじは、もうその苦しさから解放されたのだ。お疲れ様でした。病院のご飯ばかりでつまんなかったよね、いっぱい好きなもの食べてね。久しぶりのお酒で飲み過ぎないようにね。顔真っ赤にしてるのかな。向こうでは何をするの?教えてよ。

 

 

 


寂しい、置いていかないで。もう会えないなんて知らないよ。もういっかいりーちゃんって呼んで。家の門にあるしだれ桜の木の前で写真撮りたい。ばあばのこともじいじのこともとっくの昔に抜かしたけど、金髪のわたしと並んで写真撮ってないよ。